深田 上 免田 岡原 須恵
卒寿 ふるさと紀行  球磨川の囁き

あさぎり町ふるさと会  杉下 潤二  

 まえがき

 2025年10月、七月豪雨被災の球磨川を舞台に、失くした居場所を自ら取りもどすまでを描いた中原丈雄主演の映画「囁きの河」の上映会が各地で行われた。
 上映会のあと、わたし、球磨川は囁きました。「球磨川は、流域の50有余を犠牲にし、肥薩線の鉄路と橋梁を損壊流出させ、田畑と町を水没させたわけではありません。雨は自然のままに降り、川となって低い方に流れただけです。邪魔されても低い方へ流れただけです。川のせいでも水のせいでもありません。被害がでたのは人の叡智が及ばなかったからです」。及ばなかった叡智とは何なのか、囁きの内容をもっと詳しく説明しよう。

  1. 球磨川の氾濫の元凶

 令和2年7月3日夜、梅雨前線が九州北部まで北上し、低気圧や前線に向かって湿った暖気が流れ込んで大気が不安定になり、記録的な大雨となった。特に球磨川流域では線状降水帯ができ、時間雨量30ミリを超える激しい雨が7月4日未明から朝にかけて、8時間にわたって降り続いた。その結果、球磨川中流部から上流部および川辺川の降雨量は、6時間から24時間雨量において、戦後最大の洪水被害をもたらした昭和40年や昭和57年7月の洪水を上回る降雨量となった。
 台風、地震、豪雨など自然現象は人が制御できないため自然災害とか天災と呼ばれる。しかし天災でも対処策が不十分で、かつ努力不足によって被害が増大したような場合は人災といえる。令和2年(2020年)の7月豪雨被害は人吉、球磨村地方でも甚大であったが、災害事情を考査してみると対策の遅れによると言わざるを得ない実態が浮かび上がった。

 1) 球磨川域の浸水被害と人的被害

 国土交通省と熊本県がまとめた「令和2年(2020年)7月の球磨川豪雨検証委員会資料」を基に、球磨川氾濫による人吉市及び球磨村地区の浸水被害域と人的被害について考えてみた。まず、
図1は同資料の中にある7月豪雨による人吉市街地の浸水域である。同様の資料が国土地理院からも出ている。
 球磨川流域の犠牲者は50名であるが、その内、人吉市の犠牲者は20名で、浸水範囲が広い右岸側に集中し、概ね浸水範囲と一致している。球磨村の渡にあった特別養護老人ホームの千寿園の犠牲者は16名であった。どうしてこのような被害となったのであろうか、その元凶を探ってみた。
 水は高い方から低い方向へ流れるのが常であり、雨が止んでも水溜まりとなるのは低い場所である。そう思って、球磨川沿岸の標高を調べてみた。図2がその結果である。図は、湯前町の岩野から球磨村球泉洞までの球磨川沿岸や堤防沿い道路の標高である。

 
浸水被害マップ
図1. 人吉市街地の浸水被害マップ(画面クリックで拡大)
 
標高
図2. 球磨川沿岸(湯前~球磨村間)の標高

 概していえることは、湯前町からあさぎり町の東免田あたりまでは、球磨川右岸の方が標高は高く、中球磨地区ではほとんど差はない。しかし、人吉の願成寺あたりから、右岸の方が標高は低く、球泉洞では右岸の方が高くなっているが、その下流での標高差ばらばらである。この標高は現地で実測したわけではなく地図の上での値であるから正確な値ではない。ちなみに、濁流の浸水によって16名の犠牲者がでた特別養護老人ホームの千寿園は球磨川右岸、渡駅の北30m、標高93mの地点にあった。左岸は約200mの褶曲山塊(しゅうきょくさんかい)の突堤であり、雨によってあふれた水流は標高の低い千寿園方向に侵入したと想定できる。二度と浸水被害が無いようにと、新設の千寿園は以前よりも20mも高い球磨川右岸の球泉洞近くにできている。水は間違いなく低い方へ流れ溢れたのである。

 2) 球磨川中洲の中河原公園

      焼き捨てて 日記の灰の これだけか
      れいろうとして 水鳥はつるむ     種田 山頭火

 これらは、山頭火が熊本から行乞に出るとき、すべての日記を焼き捨てた際の心境をきらきらと流れる玲瓏(れいろう)な球磨川を詠んだ句とされる。

同じころ、昭和7年、与謝野晶子夫妻は人吉を訪れて次のように詠んだ。

     東より  球磨川西す  山国の  空なる月の  しるべの如く   与謝野 晶子

 この歌は球磨川の歌であるが球磨郡の歌でもある。それは、球磨川が「東より 球磨川西す」という流路は人吉球磨地方だけであり、球泉洞を過ぎて葦北郡に入ると北上しはじめ、「南より球磨川北す」となる。いつの時代から、なぜどうして、流れが急変したのかについては、これも、卒寿 ふるさと紀行「九州が二つの島になる話」で紹介した。

 
中川原公園
図3. 球磨川の中州にある中川原公園

 川の中に岩塊や島があれば、水の流れは阻止され、上流では水嵩が増すことは子供の頃の小川遊びで経験したことである。小川の流れをとめ、水嵩が減った下流で魚を捕まえたのが「かいどり」とか「川干し」言われていた遊び漁法である。この常識は大河や急流河川でも実験的に確認されている。たとえば、 2021年9月発行の京都大学防災研究所自然災害科学総合シンポジウム講演論文集にある。この研究は,令和2年7月4日に発生した人吉市における球磨川水害について模型実験を通して中川原公園および橋梁が異常洪水流に与える影響を調べたものである。要旨は、中川原公園の存在は、公園にかかる大橋より上流において、約2mの水位上昇することが確認され、さらに同年10月には「氾濫の一因は中州の公園にあった!土木学会が九州豪雨分析」と題して、同様の要旨が「防災ニッポン」でも紹介されている。

 
中川原公園
図4. 水没した中川原公園(画像:防災ニッポン)

 図3は球磨川砂州の中川原公園で、人吉城歴史館の直ぐ前の中州である。長さ約600m、最大幅約230mで、中州は川幅の60%以上を占めている。このような砂州が西人吉あたりまでの下流に幾つもあり球磨川の堰止め作用をして標高の低い右岸に浸水したと考えられる。図4は水没した中川原公園である。現在、復旧整備事業が進められているが、常識的、学術的知見が生かされ、人吉観光のコンセプトである球磨川景観と親水性が全うされた浸水被害ゼロの町づくりが進むことを祈念するものである。

 

 
チラシ
映画「囁きの河」(讀賣新聞)

 

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  2. 球磨川橋梁の嘆き

 斜橋と直橋、橋が川や道路などと斜めに交わるものを斜橋といい、直交で横切る橋を直橋という。川と橋の交差角を斜角と言い、川幅や道路幅が同じであれば、直橋に比べて斜橋は長くなる。たとえば、斜角が45度の場合だと直橋の約1.4倍、60度の場合だと2倍になり資材も工期も増して経費も相応の増加となる。デメリットの多い斜橋がなぜ作られるかというと、往時の流行でもあったが、架橋場所の地形や接続道路及び地権等のためである。

 球磨川には肥薩線の橋梁が三つ、くま川鉄道の橋梁が一つ、計4つの橋梁がある。このうち肥薩線の二つの橋梁、球磨川第一橋梁と第二橋梁が流出し、くま川鉄道の第四橋梁も流出した。流出した橋はすべて斜橋である。直橋の第三橋梁は橋桁の上まで洗われ多量の流木が堆積したが流出はしなかった。この橋は新基準、新技術によって架設されたもので昭和52年(1977)に再架設された。架設場所は人吉市上新町の球磨川にかかっている。これらの橋の架設されている場所を図5図6に示した。

 
第一橋梁   第二橋梁
    図5. 肥薩線の球磨川第一橋梁(左) と 球磨川第二橋梁(右)の架設場所:

 第四橋梁は川に直交していて直橋のように見えるが川辺川や球磨川の流れ方向に対して斜めになっているので本稿では斜橋扱にした。特に川辺川の流れは斜角45度ほどになっており、球磨川の流れも平行状態ではない。国登録有形文化財であり、くま川鉄道の象徴でもあった球磨川第四橋梁は川村駅と肥後西村駅の中間にあり、川辺川が球磨川に合流する直下流にある。

 
第三橋梁   第四橋梁
  図6. 肥薩線の球磨川第三橋梁(左) と くま川鉄道の第四橋梁(右)

 以下、第一、第二及び第四橋梁の流出損壊状態を紹介し、人災とする観点を述べる。まず図7左は流出前の第一橋梁である。図中央は橋桁側から見た流出状態で川の中央に見える橋脚の柱部分も欠損している。図で見る限り、驚くべきは橋脚が鉄筋や鉄骨で補強されていないことである。この事実は分かっていたはずであり、補強策を講じなかったのは人災である。図右端は洗われているトラス桁である。球磨川第一及び第二橋梁は、アメリカの技師が設計し、アメリカン・ブリッジ社が製作した60度斜角の切り詰め式トラス橋である。

 橋梁の流失要因は、河川水位の上昇により大きな流体力が橋梁に作用したためであるが、大きな流体力の主因は橋桁に堆積した流木やゴミである。当時の水位は路面より上まで上昇しており,大きな流体力が上下部構造に作用したことや橋脚及び支承部に耐荷力を超過した作用力があったためと考えられている。さらに橋脚及び基礎の損壊は強靭材料による補強設計がなされていないことである。

 
第一橋梁   第一橋脚   橋脚流出
   図7. 流失前の球磨川第一橋梁(左)  橋脚の損壊(中)  橋脚の流失(右)(読売新聞)

 この指摘は次の図8に示す球磨川第二橋梁の損壊流失事例でもわかる。第二橋梁は肥薩線の渡駅近くにある斜橋であり、球磨川に架かる全長約179メートルの鋼製の斜橋である。1908年に架けられたものであるが令和2年の豪雨で石造りの橋脚を残してほとんどが流された。同図左は流失前の第二橋梁であり、損壊流失箇所は橋脚の上に載っていたトラスや橋桁である。令和3年(2021)、球磨村は第二球磨川橋梁の骨組みをJRから譲り受け、川底から引き上げて解体保存し、その歴史と復旧への希望を託している。

 
第二橋梁   橋脚流出
図8. 流失前の球磨川第二橋梁(左) 損壊流失した橋桁(右)(画像:橋梁調査会)

 図9はくま川鉄道の球磨川第四橋梁である。左図は流失前の第四橋梁、右図は令和二年の豪雨によって流失した第四橋梁の橋脚と橋桁である。流出前の第四橋梁は桁橋であり、橋脚はなんと13本。現在、再架設中の新しい第四橋梁の橋脚は水流抵抗軽減のために4本になっていることを勘案すると、今から百年ほど前の大正13年(1924)頃の設計基準や橋梁技術はどんなものであったのか不思議である。もう一つの不思議は橋脚の損壊転倒である。 筆者の居住近くの揖斐長良川にかかる伊勢大橋が拡幅のため新しい橋が建設されている。住民に対しての橋脚基礎工事の見学会が開催され現代の先端技術を覗いてきた。感想は、これほどの鉄筋鉄骨で補強された橋脚基礎であればどんな災害にも抗するというものであった。しかし図9の中と右図を見ていただきたい。これらの画像には、凡そ100年前頃の橋梁基準や施工技術が如実に表れているからである。図は令和2年の豪雨によって氾濫した磨川第四橋梁で、左図が流失前、中央が損壊転倒した橋脚、右端は橋脚根本である。倒壊した橋脚を見ると、前述したように、鉄筋や鉄骨等強靭材料による補強策は講じられていないことが分る。今回の豪雨雨氾濫で流失した球磨川橋梁は全て斜橋であった。

 
第四橋梁   橋脚流出   橋桁
  図9. 流失前の第四橋梁(人吉新聞)   損壊転倒流失した橋脚や橋桁(人吉新聞)

 平井氏らの「第31回土木学会地震工学研究発表会講演論文集」によると、斜橋は地震の時に回転し易くなり、脱落する可能性が指摘されている。そればかりか、斜橋は直橋よりも水流に接する面が多いのであるから、流木ゴミの堆積も多くなり、それだけ流れ抵抗は増すことになり、橋梁の損壊流失要因となる。

 ネックとなっていた球磨川第四橋梁が竣工し、令和八年九月二十日、くま川鉄道は全線開通だそうである。新しい橋が二度と災禍を受けず、いつまでも田園シンフォニーの「渡河橋」であることを祈念する。

 
新第四
新しくなった第四橋梁(人吉新聞)

 

あとがき

 未曽有の七月豪雨災害、自然災害だから仕方ない、天災だから人智は及ばない、などとなだめ癒していないだろうか。確かに大雨と濁流は人間の抗しきれないものであったが、本稿は、素人の目線で、関係者は万全を期したのかを考えたものである。まず、人吉球磨村地区での浸水被害が右岸に集中し、それはこの地区の右岸が左岸よりも標高が低いことに起因した。それにも関わらず、堤防嵩上げ等の護岸対策が講じられていなかった。
 二つ目は、人吉中心部の球磨川には幾つかの砂州が存在し、中でも中川原公園の中州の存在は、その上流では水位を2mほど増大することが学術的に報告されていた。それにも関わらず市民の憩いの場として利活用していた為政者や市民の責任は大きい。
最後は、肥薩線球磨川橋梁の損壊流出では、施工段階での橋脚が鉄筋等強靭材による補強されていなかった。それが分かっていながら対応策が講じられなかったことは管理者の責任であり人災にあたると言わざるを得ない。
冒頭の囁きのように、氾濫災害は川や水のせいではない。球磨川の嘆きが二度と起きないように、玲瓏(れいろう)と水鳥つるむ流れの球磨川であることを念じている。

 
映画
映画「囁きの河」パンフ

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